赤いクレヨン-1
よく「見える人」なんて言うが、僕自身はそうではないように思う。ただ、時折感じる「悪い気配」は、それに近いのかもしれない。そんな僕の感覚が告げていた。ここは、よくない場所だと。
「田中くん、今夜あたりうちで一杯どう?新しくなってからまだ来てないだろ?」
上司である鈴木さんの誘いに、僕は二つ返事で応じた。入社して以来直属の先輩としてお世話になってきた鈴木さんは、1カ月前、新居に越したばかりだ。前の家でも独身の僕を度々招いては、奥さんの手料理をごちそうしてくれたりと、鈴木さんにはプライベートでもお世話になりっぱなしだった。定時で仕事を切り上げ飛び乗った急行の車内、
「娘も田中くんに会いたがってるんだよ」
今年4歳を迎える愛理ちゃんのことを話しながら鈴木さんは目を細めた。各停に乗り換え数駅で到着したのは、閑静な住宅街だった。古い瓦屋根の家々にときおり混じるパステルカラーの屋根。そのうちのひとつ、2階建ての真新しい洋風の家を鈴木さんは指さした。
「5年程前まではもとあった古い家をリノベーションして住んでたらしいんだけど、前に住んでた人が急に越しちゃったとかで。そのままになってたのを取り壊して新築したんだ」
手料理をアテにビールを飲みながら話す鈴木さん。その横で愛理ちゃんの相手をしながら奥さんが付け加える。
「うちは子供が小さいから、騒音の心配があるでしょ?お隣の家との距離が少し離れているのもちょうどよかったんですよ」
その流れで土地選びや、引っ越しの話に華が咲く。何杯目かのおかわりした頃、愛理ちゃんが袖を引っ張ってきた。
「新しい愛理のお部屋案内してあげるー」
「田中さんお仕事で疲れてるんだからあんまり困らせちゃだめよ」
困り顔で言う奥さんが「お願いします」と目配せする。
「適当に相手したら連れ戻してきてくれていいからな」
との鈴木さんの声を背に、愛理ちゃんに手を引かれて向かったのは、1階廊下の奥の部屋だった。
1歩足を踏み入れた瞬間、動けなくなった。その部屋の禍々しい「何か」の気配に圧倒されたのだ。猛烈な悪寒が背筋を駆け抜け、何かとてつもなく嫌なことを忘れているようなモヤモヤとした感情を残し、引いていった。半ば呆然とする自身の手を引き、愛理ちゃんが棚の前まで引っ張っていく。
「おもちゃがこんなに入るおもちゃ箱も買ってもらったんだよ!そうだ!愛理の宝物見せてあげるね!」
全く気がつかない様子でおもちゃ箱からポーチを引っ張りだす愛理ちゃんを見ながら、先程の悪寒は気のせいだと自分に言い聞かせる。
「これはね、海に行ったときにお父さんが拾ってくれた貝殻!これはね、えっとね、クレヨンの赤色!これはね…」
ひとつひとつ紹介してくれる愛理ちゃんの話を聞きながら、徐々に冷静さを取り戻す。新築の家が曰くつきなんていうのもおかしな話だ。今日はたまたま体調が優れないだけなんだろう。早めに失礼して家でゆっくり休もう。そんなことを考えながら、愛理ちゃんの話に相槌を打っていると、ポーチの中に気になるものを見つけた。その視線に気づいた愛理ちゃんが笑顔で「それ」を差し出す。
「これも宝物!」
それはくしゃくしゃに丸められた紙くずだった。
「開けてみて!」
愛理ちゃんに促されて、宝物は紙くずではなく、包まれた中身だと気付く。紙くずを開き、その中身の正体を認めて息を呑んだ。それは、数枚の小さな爪だった。
マンションの自室に帰りつき、ため息とも深呼吸ともわからぬ長い息をつく。あの後すぐ、体調が悪いと伝え逃げるように帰路についた。鈴木さんにはあのことを伝えることができなかった。無論、愛理ちゃんの爪は剥がれてなどいなかったし、友達の爪を剥がすような喧嘩をするような子でも無かった。ところどころ乾いた血がこびり付き、黄色く変色したそれを誰にもらったのかを聞いても
「秘密!愛理のお友達!」
としか答えない愛理ちゃんを見る限り、鈴木さんに伝えたところで正体がわからず、後味の悪い思いしかさせないように思ったからだ。なによりも、自分自身気味が悪く一刻も早くあの状況から逃げ出したかった。冷静になると否が応にも、あの部屋に入った瞬間に感じた悪寒が頭に浮かぶ。何か関係があるのだろうか。そんな思考から逃がれるべく、シャワーを浴びるためスーツを脱ぐ。ジャケットをハンガーに吊るし、いつものようにポケットからハンカチを出す。洗濯機にいれるためにハンカチを開いたその時、何かがバラバラと床に落ちた。折りたたまれたハンカチに包まれていたであろうそれは、10や20では到底足りないほどの大量の小さな爪だった。